本能寺の変は、滝川及び北条の陣営に相前後して伝わった。当初北条から滝川へは友好関係を保ち至急の上洛を応援する姿勢が示された。しかし、信長と信忠の死が確実な状況となると、これに乗じた上野侵攻が企画された。武田攻めの被害が僅少であった北条軍は即時動員を行い、北条氏直・北条氏邦勢5万6千が上野に侵攻した。上野を治めてまだ3ヶ月しかたっておらず、軍の統制が十分に取れていない一益は「弔い合戦のため」と称し、2万弱の兵を率い北条と対決することとなった。
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氏直勢は6月16日に倉賀野を攻め襲い、一益勢はこれに応戦すべく金窪(武蔵国児玉郡上里周辺)で迎え撃った。主要な戦いは2回にわたって繰り広げられた。
第一次合戦 [編集]
6月18日の第一次合戦では、一益勢が寡兵ながらも氏邦の鉢形衆300あまりや氏直の近侍衆を討ち取るなど、北条の先遣部隊を追い落とした。
第二次合戦 [編集]
6月19日の第二次合戦でも緒戦では一益勢が優勢であったが、北条勢を深追いし軍勢が著しく縦長となり、退くと見せて反転攻勢に出た北条勢に取り囲まれる。一益勢は総崩れとなり、4000人近くも討ち取られる惨敗を喫した。一益は一旦厩橋城に遁走するも、やがて碓氷峠から小諸を経て本拠地の伊勢長島城に逃げ帰った。
影響 [編集]
一益は遁走の際、配下であった関東諸侯の人質解放を無条件で行うなどして高潔な面を見せ、関東諸侯は一益との別離を泣いて惜しんだと言われるが[誰が?]、結局は北条に降った。
一益はこの敗戦のために“敵前逃亡”のレッテルを羽柴秀吉に張られ、清洲会議に出席もできなかった。織田家における一益の地位は急落した。この後、小牧・長久手の戦いでは徳川家康、織田信雄側の軍勢と戦うも降伏。越前大野に流され、そこで不遇なまま一生を終えた。
北条の大軍はこのまま上野を通過して信濃に入り、傘下に降った真田氏、依田氏などの国人を足掛かりにして信濃国の小諸城に進出し、同国の領有をめぐって徳川家康、上杉景勝と三つ巴の対立が始まった。